多少耳を引きちぎる話

ネットで拾った一言いいたいネタを吐き出すブログ

「レッテル貼」の心理

実際にその人と会って関わり、お互いを知る努力をしない限りレッテル貼はごく普通に行われるものです。ネットが普及した現在ではリアルよりバーチャルな関わり合いが増えたことに比例してレッテル貼も当然増えるものと考えられます。

それとも自分にだけは一人一人の個性と人格を見抜き世の中の全ての人を独立したフォルダに入れて脳に保存しておける自信がありますか?これは脳の機能上仕方のないことです。あまり関心の無い相手は全員適当なフォルダに放り込む、それが昨今言われている「レッテル貼」だと思います。

 

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では今まで人類が普通にやってきたことが、何故今更「レッテル貼」などという新しい単語にすげ替わり 多くの人が使用するキーワードになったのでしょうか。

「レッテル貼」を批難する人には共通点があります。
それは「肯定的なレッテル貼になら喜んで飛びつく」

つまり自分が「日本人だから礼儀正しい」とか「A型だから几帳面」、「男だから女より優れている」といった←自分で今書いてて思わず笑ってしまう例ばかりなのですが自分がある一定の枠に押し込められて枠ごと肯定されることはよしとします。しかし「アジア人だから劣る」とか「オタクだからキモい」のような否定的なレッテル貼には過剰反応します。

要するに何をするにも他人の評価を気にしすぎ、他人の評価でイメージを創り上げて自分というものがどこにも無いんです。自立も主体性も個性も何もありません。

日本の教育カリキュラムは個性を重視せずみんなが同じ回答を出し、先生の言われた通りに振舞うことが最も高く評価されるため自分は他人によって作られるものだと勘違いしてる人が多くても無理はありません。
かといって日本より自由な教育を施している国でも他人からの評価の総合で生きてるような人はいくらでもいるんですけどね。結局どんな教育を受けたかより自身をどう教育するかの方が重要です。